第Ⅰ部 土台:音・周波数・知覚 ─ 3
倍音列 ── 協和と音色の源
一本の弦、一本の管は、実は同時にたくさんの高さで鳴っています。基音の 2 倍、3 倍、4 倍……と整数倍の高さの成分「倍音」がいっせいに響き、その配合が音色を決めています。
つまりあなたが「ひとつの音」を聴くたび、耳はすでに整数比の和音を聴いているのです。純正な音程が心地よいのも、微分音がそこに新しい響きを見つけるのも、源泉はすべてこの倍音列にあります。本書で最も重要な一枚の設計図です。
整数倍の梯子
周期的な振動(両端を固定された弦、片端の開いた管の気柱、人の声など)は、基本周波数 \(f_0\) と、その整数倍 \(2f_0, 3f_0, 4f_0, \dots\) の成分を同時に含みます。この整数倍の列を倍音列と呼びます。隣り合う倍音の周波数比は \( \frac{2}{1}, \frac{3}{2}, \frac{4}{3}, \frac{5}{4}, \frac{6}{5}, \frac{7}{6}, \dots \) と、上に行くほど狭くなっていきます。オクターブ、完全5度、完全4度、長3度……前節までに登場した純正音程は、すべて倍音列の中の隣接関係・遠隔関係として現れるのです。
下の梯子で、第1〜16倍音を一段ずつ聴いてみましょう。基音は A2(110 Hz)です。
精密レイヤー ── 用語の整理:部分音・倍音・上音
用語を厳密に切り分けておきます。
部分音(partial)は複合音を構成する個々の正弦波成分の総称で、整数倍かどうかを問いません。
倍音(harmonic)は部分音のうち基本周波数のちょうど整数倍のもので、第 n 倍音=\(n f_0\)(第 1 倍音は基音自身)。
上音(overtone)は基音より上の部分音を指す古い言い方で、第 1 上音=第 2 倍音と番号が 1 つずれるため混乱のもとになりやすく、本書では原則使いません。
鐘・棒・膜など多くの打楽器の部分音は整数倍からずれた非調和部分音(inharmonic partials)であり、「倍音列」はあくまで理想化された周期振動のモデルです。この理想からのずれが現実にどれほど重要かは、本節の末尾と第Ⅵ部3(音色↔音律)で扱います。
倍音の配合が音色を決める
同じ高さの音でも、楽器によって聞こえが違うのは、倍音の振幅配合(スペクトル)が違うからです。逆に言えば、正弦波を整数倍の周波数で複数重ねれば、音色を自分の手で合成できます(加算合成)。試してみましょう。スライダーは第 1〜12 倍音の振幅です。
微分音が生まれる場所 ── 第7・11・13倍音
梯子の表をもう一度見てみましょう。第 1〜6 倍音(および第 8・9・10・12・15・16)は、12edo の音名で「だいたい」歌えます。しかし第 7 倍音(968.83¢)は最寄りの短7度から 31¢ も低く、第 11 倍音(551.32¢)は完全4度と増4度のほぼ中間、第 13 倍音(840.53¢)も半音の隙間に落ちます。自然の設計図には最初から、12 平均律の鍵盤の「隙間の音」が書き込まれているのです。
この 3 つの倍音を含む響き(たとえば 4:5:6:7 のコード)は、12edo では近似が粗く、うなりの多い響きに翻訳されてしまいます。
31edo が微分音の入口として強力なのは、まさに第 7 倍音を −1.08¢ という精度で捉えるからです(第Ⅳ部1)。聴き比べてみましょう。
精密レイヤー ── 実在の弦はわずかに嘘をつく:非調和性
理想弦の部分音は厳密な整数倍ですが、実在の弦には曲げ剛性があり、部分音は \( f_n = n f_0 \sqrt{1 + B n^2} \)(\(B\) は非調和性係数)のように整数倍からわずかに上へずれます。ピアノの中低音でこの効果は無視できず、オクターブ調律の伸長(stretch)の一因になります。本書の理論編では当面、部分音=厳密な倍音列という理想化で進めますが、次の 2 点は先に記しておきます。
(1)合成音源を使う限り、理想倍音列は完全に実現できる
─── 微分音の実践にとって電子音源が有利な理由のひとつです。
(2)スペクトルが理想からずれるなら、協和の条件もずれる
─── 「音色に合わせて音律を選ぶ/音律に合わせて音色を設計する」という Sethares の視点(第Ⅵ部3)へ直結します。
精密レイヤー ── 倍音列は「和音の推薦状」であって「音階」ではない
倍音列をそのまま音階として使う試み(第 8〜16 倍音を並べる等)は歴史上たびたび現れますが、倍音列の本領はむしろ同時に鳴る音の整合性の設計図である点にあります。2 つの複合音の基本周波数が小さな整数比にあるとき、両者の倍音は多くの周波数で一致し、一致しない倍音どうしの衝突(うなり・粗さ)が減ります。これが次節で扱う感覚的協和の音響的な骨格です。ただし「協和=倍音の一致」だけでは説明しきれない現象(存在しない基音が聞こえるミッシングファンダメンタル、比の解釈の曖昧さとしての不協和(Harmonic Entropy)などがあり、それらは第Ⅵ部5・第Ⅵ部1の主題です。
倍音どうしの「衝突」が協和・不協和をどう形づくるのかについて、次節で耳の内部の解像度(臨界帯域)と粗さの科学に踏み込みます。