微分音のグリモワール 第Ⅰ部 土台

第Ⅰ部 土台:音・周波数・知覚 ─ 5

音高弁別閾(JND)── 31edo は細かすぎないか

直感レイヤー

「オクターブを31等分なんて、細かすぎて聞き分けられないのでは?」
微分音の話をすると必ず出る疑問です。答えを先に言えば、訓練していない耳でも、続けて鳴る2音なら十数セントの差は聞き取れ、31平均律の1歩(約39¢)は余裕で聞こえる差です。しかも同時に鳴らせば、うなりを使ってさらに細かい差まで分かります。この節では、人の耳の解像度「弁別閾(JND)」の相場を押さえ、最後に自分の耳をその場で測ります。

弁別閾とは

JND(just noticeable difference・丁度可知差異)は、2つの刺激の違いに気づける最小の差のことです。音高については「続けて鳴らした2音の高さの違いが分かる最小のセント差」として測るのが基本形です。
音楽・微分音の文脈でこの数字が重要なのは、音律間の差(コンマや近似誤差)が聞こえる差なのかどうかの判定基準になるからです。

精密レイヤー ── 相場と、値を動かす要因

音高の JND は単一の定数ではなく、条件で大きく動きます。目安として、中音域(500 Hz〜2 kHz)・十分な長さ(200 ms 以上)・十分な音量の純音を順に聴き比べる課題では、周波数比にしておよそ 0.2〜1%(セントに直して約 3〜17¢)の範囲に多くの測定が収まります。訓練された聴取者や音楽家は下限側(数セント)に寄り、好条件の実験室では 1¢ 台の報告もあります。値を動かす主な要因は次のとおりです。

  • 周波数域:中音域が最も鋭く、低域(100 Hz 以下)と高域(4 kHz 以上)では急激に粗くなる。
  • 持続時間:短い音ほど閾は上がる(数十 ms の音では大きく悪化)。
  • 訓練:音楽訓練で数倍改善しうる。微分音の聴取自体も訓練になる。
  • 提示方法同時に鳴らせば、うなり(Ⅰ-1)や粗さを手掛かりにでき、順次提示よりはるかに細かい差(条件次第で 1¢ 未満)が検出できる。調律師が和音で合わせるのはこのためです。
  • 文脈:旋律・和声の文脈があると、カテゴリ知覚(音程を「種類」で聞く癖)が働き、単発の弁別とは別の振る舞いをする。

本書の以後の議論では、保守的に「順次なら 5〜10¢ 程度、同時ならそれよりずっと細かい」を作業仮説とします。

微分音の物差しに重ねる

この相場を、本書に登場する主要な「小さな差」と並べてみます。バーは 12edo の半音(100¢)を全幅とした比率です。

読み取れることは三つ。
第一に、31edo の 1 ステップ(38.7¢)は JND の 4〜8 倍もある、はっきり聞こえる音程差で、「細かすぎて無意味」という心配は不要です。
第二に、12edo の長3度が純正 5/4 から外れている量(13.7¢)は順次でも聞き取れる域にあり、同時に鳴らせばうなりとして明瞭で、12edo の「濁り」は知覚可能な実在です。
第三に、シントニックコンマ(21.5¢、第Ⅱ部3)のようなコンマ級の差は、単発では微妙でも文脈と同時性の助けを借りれば十分聞こえる。だからこそ、コンマを「どう処理するか」が音律設計の中心問題になるのです(第Ⅲ部)。

自分の耳を測る

では、あなたの順次弁別の閾を測ってみましょう。2つの音が続けて鳴ります。2音目が高いか低いかを答えてください。正解が続くと差が狭まり、間違えると広がります。約 20〜30 回の回答で推定値が出ます。

聴き分けテスト(順次・純音)

静かな環境・ヘッドフォン推奨。基準音はテストごとにランダムに移動します(音の記憶ではなく差の聴取を測るため)。この簡易テストは実験室水準の測定ではありません。再生環境・疲労・偶然で数セントは揺れます。それでも 31edo の1歩があなたの閾の何倍上にあるかを実感するには十分です。

土台の総括 ── ここから微分音theoryへ

第Ⅰ部で据えた土台を一枚にまとめます。
耳は比を聞き(Ⅰ-1)、
比はセントで足し算になる(Ⅰ-2)。
楽音は倍音列を内蔵し、純正音程はその内部関係である(Ⅰ-3)。
有限の分解能をもつ耳にとって、倍音の衝突の少ない小整数比は「くぼみ」として特別である(Ⅰ-4)。
そしてその特別さを支える差の多く(コンマ、近似誤差、31edo のステップ)は、人間の弁別能力の内側にある、聞こえる差である(本節)。

ならば次の問いは必然。特別な純正音程だけで音楽を組めばよいのではないか?
実際にそれを試みるのが純正律であり、そこには美しい格子構造と、コンマという名の深刻なジレンマが待っています。第Ⅱ部の主題です。

この節の要点 順次の音高 JND はおおよそ 3〜17¢(条件依存)、同時ならうなりでさらに精密。
31edo の 1 ステップ(38.7¢)は明瞭に聞こえる差であり、12edo の長3度の誤差(13.7¢)も知覚可能。コンマ級の差の可聴性こそが、音律設計という営みの存在理由。