微分音のグリモワール 第Ⅰ部 土台

第Ⅰ部 土台:音・周波数・知覚 ─ 1

音・振動・対数的ピッチ・うなり

直感レイヤー

音は空気の細かい振動で、1秒間に何回振動するかが「高さ」を決めます。この回数(周波数)は倍・倍で聞くのが人間の耳の癖で、2倍になるたび「同じ音名の一段上」=オクターブに聞こえます。そして、高さがほんのわずかに違う2つの音を同時に鳴らすと、音量が「ワンワン」と揺れるうなりが生まれます。うなりは耳が持つ最も精密な物差しです。
この節では、この3つ「周波数」「オクターブ」「うなり」を実際に鳴らして確かめます。

音の高さは周波数

音は媒質(ふつうは空気)の圧力の振動として伝わります。振動が1秒間に繰り返される回数を周波数と呼び、単位は Hz(ヘルツ)です。周波数が高いほど、音は高く聞こえます。人間が「ピッチ(音の高さ)」として聞き取れる範囲は、おおよそ 20 Hz から 20 kHz のうち、旋律として明瞭に機能するのはせいぜい 27 Hz〜4 kHz 程度です。合奏の基準として広く使われる A4 は 440 Hz です。

周波数を聴く

440.0 Hz A4

スライダーは対数目盛(55〜1760 Hz)です。同じ幅の移動が「同じ音程」に聞こえることに注意してください。
これが次項の伏線です。音名は 12edo 基準(A4=440)の参考表示です。

純音と複合音

もっとも単純な音は、単一の正弦波からなる純音です。
純音は自然界にはほとんど存在しない「実験室の音」ですが、聴覚の性質を切り分けて調べる基本素材になります。一方、楽器の音や声など現実の楽音は、多数の正弦波成分(部分音)の重ね合わせでできた複合音です。
部分音の構成こそが音色の正体であり、その典型的な並び方が倍音列(第Ⅰ部3)です。

精密レイヤー ── 純音・周期性・ピッチの対応物

純音は \( x(t) = A \sin(2\pi f t + \theta) \) と書けます。
振幅 \(A\) はおおむねラウドネスに、周波数 \(f\) はピッチに対応しますが、初期位相 \(\theta\) は単独では知覚にあまり寄与しません。複合音が周期 \(T\) をもつ(=波形が \(T\) ごとに繰り返す)とき、その成分は基本周波数 \(f_0 = 1/T\) の整数倍に限られ(フーリエ級数)、ピッチは通常 \(f_0\) に対応して聞こえます。重要な注意として、ピッチは物理量ではなく知覚量です。「ピッチ=基本周波数」は多くの場合よい近似ですが、成分の欠けた音や非整数次成分をもつ音では乖離が生じます。その代表例であるミッシングファンダメンタル(基本音が物理的に存在しないのにそのピッチが聞こえる現象)は第Ⅵ部5で扱います。

ピッチは対数的

ここからが、本書全体を支える最初の急所です。耳は周波数の「差」ではなく「比」を聞きます。110 Hz→ 220 Hz の隔たり(差 110 Hz)と、880 Hz→ 1760 Hz の隔たり(差 880 Hz)は、物理的な差は2倍違うのに、同じ大きさの音程(どちらもオクターブ)に聞こえます。等しい比が等しい音程に聞こえる。これを「ピッチ知覚は(周波数に対して)対数的である」と言います。

この性質があるからこそ、音程は周波数「比」で表すのが自然になり、比を扱いやすくするための対数の物差し(セント)が生まれます(次節)。旋律を移調しても同じ旋律に聞こえるのは、すべての音の比が保たれるからです。

「等しい比=等しい音程」を聴く

A と B は物理的な差が違うのに同じ音程(オクターブ)に聞こえ、A と C は物理的な差が同じなのに違う音程(C は全音程度)に聞こえます。

精密レイヤー ── 「対数的」の範囲と留意点

厳密には、ピッチ知覚の対数性は音楽的な音域(おおよそ 60 Hz〜4 kHz)における音程の等価性について言える経験則です。心理物理学には周波数と「ピッチの大きさ」を直接対応づけようとする mel 尺度のような別系統の尺度もあり、こちらは低域で対数から外れます。ただし旋律・和声・移調といった音楽的文脈で問題になるのは音程(比)の等価性であり、本書で扱う範囲では「等比=等音程」を安心して土台にできます。また超高域・超低域ではオクターブ感自体が崩れ、純音の高域では聴感上のオクターブが 2:1 よりわずかに広めに好まれる「オクターブ伸長(octave stretch)」も知られています。またピアノ調律の伸長(stretch tuning)には弦の非調和性という別の要因も絡みます。これは実弦の物理の話として第Ⅰ部3の末尾で触れます。

オクターブと等価性

周波数比 1:2 の音程がオクターブです。オクターブ離れた2音を人は「同じ音名の音」:同じピッチクラスとみなします。このオクターブ等価性は多くの音楽文化に共有され、音組織を「1オクターブぶんの円環」に畳んで考えることを可能にします。トップページの円環が31分割されていたのは、まさにこの円環(オクターブ)を31等分するのが31平均律だからです。

そして重要なのは、耳が 1:2 という比に対して驚くほど厳密だということです。1:2 からわずか10¢(1%未満)ずらしただけで、響きの「溶け方」がはっきり変わります。確かめてみましょう。

1:2 の精密さを聴く

前者は1本の音のように溶け、後者はゆっくりした揺れ(うなり)が浮かびます。この揺れの正体が次項の主題です。

精密レイヤー ── 等価性の根拠と限界

オクターブ等価性の根拠は複合的です。
(1)音響的:1:2 の複合音どうしは部分音が完全に重なる部分集合関係になり、干渉が最小になる。
(2)生理的:聴神経の発火の時間パターン(位相固定)が単純な整数比で整合する。
(3)文化的:等価性の「強さ」は文化・訓練により変動するという報告もある。(協和の起源をめぐる論争と合わせて第Ⅵ部6)。
なお本書では以後、断りなく「音程」と言うときはオクターブに畳んだ音程(0〜1200¢)を指すことがあります。オクターブそのものを分割の対象としない音律(Bohlen-Pierce など)は第Ⅴ部6で扱います。

うなり ── 耳の物差し

周波数がわずかに異なる2つの音を同時に鳴らすと、音量が周期的に強弱するうなりが聞こえます。うなりの速さは単純で、1秒あたり |f₁ − f₂| 回。2音の差がそのまま揺れの回数になります。差が 1 Hz なら1秒に1回、ワン……ワン……と揺れます。

うなりを聴く・見る

Δ = 3.0 Hz
220 Hz + 223.0 Hz → うなり 3.0 回/秒

図は2音の合成波形(藍)とその包絡(点線)。差を大きくしていくと、うなりはしだいに速い「揺れ」から粗い「ザラつき」へ変わり、やがて2つの音に分離して聞こえます。この連続的な変化こそ、第Ⅰ部4(粗さと臨界帯域)の主題です。

精密レイヤー ── うなりの数理と調律実務

等振幅の2つの正弦波の和は、三角関数の和積公式により

$$ \sin(2\pi f_1 t) + \sin(2\pi f_2 t) = 2\cos\!\Big(2\pi \frac{f_1 - f_2}{2} t\Big)\,\sin\!\Big(2\pi \frac{f_1 + f_2}{2} t\Big) $$

と変形できます。すなわち平均周波数 \((f_1+f_2)/2\) の搬送波が、周波数 \(|f_1-f_2|/2\) の包絡で振幅変調された形です。包絡は1周期に2回極大をとるため、聴感上のうなりの頻度は \(|f_1 - f_2|\) 回/秒になります。

調律実務との接続:うなりは純音どうしだけでなく、複合音の部分音どうしの間にも生じます。これが調律師の耳の物差しです。例えば C4(261.63 Hz)と、12edo の完全5度上 G4(392.00 Hz)を考えます。C4 の第3倍音は 784.88 Hz、G4 の第2倍音は 783.99 Hz。両者の差 0.89 Hz が、この5度を鳴らしたときに聞こえる約 0.9 回/秒のうなりです。純正な 3/2(この場合 G ≈ 392.44 Hz)に合わせればうなりは止まります。12edo の5度が純正から −1.955¢ しかずれていないのに、うなりとしてははっきり聴取できます。
うなりを介した聴取は、単独の音高の聞き分け(第Ⅰ部5)よりはるかに精密なのです。微分音の議論で「同時に鳴らせばコンマは聞こえる」と言われる根拠がここにあります。

この節の要点 音の高さは周波数(Hz)に対応するが、耳は差ではなくを聞く(対数的ピッチ)。比 2:1=オクターブは「同じ音」に畳まれ、音組織は円環になる。わずかな周波数差はうなり |f₁−f₂| Hz として聞こえ、耳の最も精密な物差しとして働く。

次節では、「比を聞く耳」のための物差し〝セント〟を導入し、音程の計算術を固めます。